アールヌーヴォー風

ずいぶん前、誰だったか“ポストモダンにおける野田秀樹”といった内容のエッセイに、
「なぜ野田秀樹の作品をおもしろいと感じるのか?」という説明があって、その答えの一つとして「共通一次を受けている程度の人であればわかる(逆にいうと、そうでないとわからない)知識を大量に入れ込むことで、観客に対し、ある種特権的な喜びを与えるからである」といったものがありました。


「特権的」というとなんか嫌なかんじですが、でも、教養がベースにあることで、広がっていくおもしろさ、というのは確かにいろんなことにあると思います。逆にいうと、教養がベースにないと、広がっていかないつまらなさ、ですよね。特にコミュニケーションにおいて。で、私は最近その辺を反省することが多いです。


例えば、葯リングについて「蜷川実花の写真のようですね」とか、FRANZに関して言えば、「アールヌーヴォー的ですね。ガレやラリックの作品に通じるものがありますね」とかよくご指摘を受けます。ここまでは私も共通理解としてあるのですが、じゃあ、どこまでそれを会話として広げられているか、というと、悲しいかな、ここでストップ。(一応ですね、かつて私も大学では美学美術史専攻だったのですよ・・・。でも、本当、みなさんお詳しくて、私、何やってたのかな・・・と二重に悲しくなります・・・。)


お客様がせっかくの球を投げてくださっていても、どこまで私がその教養に対して、正しく、楽しく返しているかというと、微妙・・・。反省。


でも、こういう会話って相手を信用していないとできないですよね。少なからず信用して球を投げてくれたんだ、と思うと嬉しい反面、その期待に応えていないかも、と余計に反省したりします。


でも、難しいっす。いきなり変化球きて、見逃しちゃいがちです・・・。修行。