どうせなら大きい方を。




遅ればせながら、「ゼロ年代の想像力」を読んでいて、


http://www.amazon.co.jp/%E3%82%BC%E3%83%AD%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%83%B3%E5%83%8F%E5%8A%9B-%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%B8%B8%E5%AF%9B/dp/4152089415/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1260877620&sr=8-1


超ざっくりまとめると、2001年あたり(テロや小泉政権発足あたり)を境に大きくいわゆるサブカルチャーの感性が変質してきていて、「大きな物語」の喪失=アイデンティティの喪失を背景に、何が正しいかわからない世の中で何も選ばず引きこもる、いわゆるエヴァンゲリオンに代表される“引きこもり系”から、バトルロワイヤルやDEATH NOTEに代表される「引きこもってたらマジ死ぬし!」的“サヴァイヴ系”=どうせ何が正しいかもはやわからない世の中なら、“あえて”ある価値観を選ぶ決断をする“決断主義”へのシフトが起きた、としていて、


で、この決断主義も結局、決断主義同士の争いとなり限界があり、これを乗り越えるためには、「日常の中から物語をつかみ取ることが必要」だとしているんだけど(←話が飛びすぎててわからないと思うけど)、ここの部分に「やっぱりねー!!」と思った、ということを本日は言いたいブログです。



結論としては、クドカンとかを題材に“(いつかは終わりのある)日常の中にこそロマン(=物語)はあるんだ”みたいなことを言っている訳ですが、前にも書きましたが、なんか最近この手のものが多いなぁ、飽きたよ、と思っていたけど、やっぱりそういうのが流行ってたのか!!と納得してたら、


さらにそんな状況の中「坂の上の雲」が始まっちゃってますます納得。


坂の上の雲」なんて、


このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。
やがて彼らは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでゆく。
楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。
のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう


司馬遼太郎が書いている通り、超「大きな物語」を信じて疑わず、全国民が全力で坂をのぼってたという、まさに今の時代の真逆の感性を書いているわけだけど、


でもそれがその時代へのノスタルジーというよりも、もう“日常の中のささやかな小さな物語”みたいなものを描かれるのにみんな飽きてきたんじゃないかなぁ。


どうせ何かを選ばなければいけない決断主義の時代ならば、デカいロマンを“あえて”選ぶ方が面白いんじゃん?みたいなかんじじゃないでしょうか。


個人的には私も日常の小さな物語を大事にしたいとは思うし全然そういう世界で生きているんだけど、でもみんながみんな小さく小さく生きているのもやっぱりつまらないよね。想像もつかないダイナミックな生き方をしている人がいる世の中の方が面白いし。


人生の中に大きいものがあって、小さいものがある、その掛け合わせが一番面白いんじゃないかなぁ。わかんないけど。


時間があれば。


写真は、ほぼ毎日私がしているリングの色違いです。私はカーネリアンですが、こちらはスモーキークォーツ。よく聞かれるので、ご紹介。


http://www.gris.bz/shopping/index.html