「どう記憶するか」こそ個性である。


先日、大学時代の友人たちと忘年会をしていて、


私たちのまわりには、どうもキャピキャピした女の子がいない(果たして、女子としてこれでいいのか!?)


と30代に突入していまさらなテーマでお酒を飲んでいましたが、


例えば、面白かったのが、「写真にコメントやハートマーク、吹き出し等を記入するという行為」について。


私及び私の周辺はもちろんそういうことはしない(というか、できない)のですが、“やっぱりそういうことしちゃう方が女の子っぽいんだろうね”と意見も出たものの、どうですかね(しかも30代で!?)。


それってある種の編集行為で、“そういう風に現実を読み込みたい”という願望もある気がするよ(←おおげさ)。




「どう記憶するか」こそ個性である。




と、あるエッセイにあったけど、「不本意な事実は「自分」という物語に組み入れることが出来ず、自分を傷つけない都合のいいドラマを記憶するのだ。これが、記憶の正体ではないか。甘ったるいウソの記憶に包まれるより、傷だらけの思い出したくもない正しい記憶のもと人生を過ごしたいと願っている。」そういう人間でありたい、とそこには続くのだけど、


一枚の写真には、実は本当は写らない部分でのそのときの生活のいろんな感情を想起させたりするもので、写っている現象だけを切り取って“ハッピー!!”だとかなんだとか単純なコメントを付けるっていうのは、記憶をどこか意図的に作り上げていく欺瞞的行為(←これまた、おおげさ)な気がどこかしているんじゃないかなぁ。


事実を装飾せずにに向き合っちゃうってことはその分傷ついちゃったりするんだけど、でも私はそういうウソっぽさを良しとしない、キャピキャピどころか、どこか自分を客観的に自己批判してしまうようなあなたたちが大好きです(笑)。だから友達として面白いんじゃないですか。あのときいまいち説明しきれなかったら、補足させていただきました!



そして、今年1年を「どう記憶するか」。



「今年1年がんばりました♡」で済ませないためにも、来年を今より一歩進めるためにできるだけ現実を正確に記憶したいと思います。



写真は、cogito.\14175


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