適正規模
太田光が「野田さんみたいな人がもっとメディアの中央に出て行って、twitterなんかより面白いものがあるんだよ!!って若者をこっち(=演劇)に振り向かせないといけないんですよ!!」と熱く語っていたんだけど、
要は、演劇の面白さなんて一部の人しか知らないじゃん!もっとリーチを広げないとそんなの意味ないよ!!って話をしていて、それに対して、野田秀樹は
「・・・うーん。でも、少ない対象の方が深く伝わるってこともあると思うんだよね」
とまた違う価値観を提示していたのだけど、野田秀樹って、前にも書いたけど、誰だかが言っていたように、
「なぜ野田秀樹の作品をおもしろいと感じるのか?」、その答えの一つとして「共通一次を受けている程度の人であればわかる(逆にいうと、そうでないとわからない)知識を大量に入れ込むことで、観客に対し、ある種特権的な喜びを与えるからである」とあって、実はそもそも万人にわかりやすく届けよう、という作り方はしてないよね。
ものすごいスピードで言葉が溢れていって、その言葉のイメージでつないでいくパラレルの世界が最後の最後の場面でようやくバッとすべてが収束して、テーマが見えてくる、というようなあのかんじは、観る方にものすごい集中力と解釈の能力がいると思う(だから、私も本当のところを理解しているかわからない)。
私は、誰もこないような美術館で、作った人にしかその意図を理解できないようなオブジェみたいなものを作って、いったいどれほどの意味があるのだろう、それは単なる自己満足なんじゃないか、とも思うんだけど、でもだからと言って、マスにアプローチできているものがすごいとも思わないんだよなぁ。
えーっと、何がいいたいかと言うと、お店とかでも一緒で、広げて大きくしていくことを価値としている人と話をすると、そんなの欺瞞じゃないか的なかんじで思われているのかなぁ、と(勝手に)思ったりするんだけど、やりたいことの適正規模、みたいのってあるんじゃないかと思って。それがそれぞれどれぐらいの広がりが正解かというのはよくわからないんだけどさ。
・・・すいません。結論はないんだけど。でも、大きいこと(もしくは、広がりがあること)が絶対的に正しいことだ、っていうのは、ちょっとなぁ、と思ったもので。
写真は、\4536.くじらのネックレス。