冗談じゃないぜ

gris-bijoux2007-05-30

ここのところ身体の疲れが抜けないので、あまり無理はせず、昨日は身体を休めながらゴロリと吉本隆明の「遺書」を読んでました。



「日本も、もうすぐ死ぬぜと思えます。」


「でも僕は、冗談じゃねえよ、その考え方が駄目なんだと思います。」



内容と全然関係ないし、どうでもいいことなんだけど、です・ます調の丁寧な話法の中で、男性がちょっと男っぽいトーンの言葉を入れ込んで書く書き言葉って、なかなか色っぽいね、と思った。


女同士の“男の人のどういう仕草にドキッとするか”というありがちな話題で、車をバックしているときの姿、だとか、タバコを吸うときの手のかんじ、とか、血管が浮き出た腕、とかよくあるけど、たぶん書き言葉とかにもそういうのあるんだと思う。話すときの言葉の選び方とか。



それにしても、「死について」「国家について」「教育について」等といったとても大きなテーマについて書いているんだけど、笑えるのは何なのか。



死ぬ前に、家族にいいのこしたいことなんか別にないし、充分後ろ姿を晒してきたからそれでいい、でも、まぁあえて具体的に言ってみるなら、長女には



「上の子供は、猫まみれというか、猫と同じレベルで猫を構ったり世話をしたりできます。だから、現世では保証できないですが、来世があるとしたら、どんなことがあっても猫が支えてくれるから、安心しなさいといえそうな気がします。」



以上。



・・・なんかさ、どうする遺書開いてこう書かれてたら。私だったら悩むね。ものすごくいろんなことを。たぶん死んでる父をたたき起こしてリライトを強要するね。しかも、お父さん、戦後思想界の巨人だよ。


とかね。


自分は中学生ぐらいなら教育できるけど、幼稚園とか小学校低学年とかは絶対できない、なぜなら、



「とてもカンにさわる児がいます。」


「本気になってケンカしたくなる児がいます。これは我慢できねぇ、この子供は絶対に許せねぇと思って、子供と本気になってケンカしないといけないとさえ思ってしまう。」「そこまでカンにさわるというのは、自分の中に何か原因があるとは思っています。」



笑。わかるけれども。そんなに熱く語らなくてもいいじゃないか。



また、教育を技術的に変革していく必要性がある、とその具体例が、



東京大学の先生は、亜細亜大学の学生を四年間卒論まで面倒を見る。亜細亜大学の先生は最小限四年間、東京大学で講義し、学生の卒論を引き受ける。すると、東京大学の先生は、世の中には頭の悪いやつはたくさんいるもんだな、だが、こいつらはセンスが抜群にいいぞとか、スポーツをやらせると、すごいのがいるもんだななどと、これまで東京大学の学生ばかり相手にしていたのでは、決してわからないことに気がつくはずですよ。反対に亜細亜大学の先生は、それまで、なまくらな学生ばかり教えていたから、自分も勉強しないでいい加減に講義をやってきた、ところが、東京大学でそんな講義をすれば、文句をつけられたり、突っ込まれたりするから、うかうかしていられないというので、自分も勉強するようになります。」


「まぁ、どの大学でもいいのですが」と書いてはいるものの、なぜ突然に亜細亜大学が任意抽出されたのか。この後もずっと亜細亜大学亜細亜大学って連呼されるんだけど、かわいそうじゃん、亜細亜大学・・・。



その他、「頭がいいというのは概して病気だから、気をつけたほうがいい」とか、


「頭のいい大学の学生というのは、概してセンスが悪いですね。何てセンスの悪いやつらだと思っていました。」


「現場の学生の先生に、教育の目標など求めても、ありませんというでしょう。個々に自分なりの信念のある先生はいるかもしれないけど、そういう先生の信念など、概して言えば虚偽でしょう。」


「いまみたいな国家や社会の現状で、立身出世しようなど、犯罪に類する」


「大前提としていいことを照れもせずいう奴は、みんな疑ったほうがいいぞとだけはいえます。あるいは「日本をよくして」なんて主張している奴は、みんな疑ったほうがいいと思います。」


などなど、いたるところに完全言い切りの名言が吐かれてます。おもろいなぁ。



でも、なんかとにかく「嘘っぽいじゃねぇか。何みんなそんなのに騙されちゃってんだよ。」ってなかんじのバッサリ感がデトックスなかんじです。毒素、たまに出しとかないと、“嘘っぽいもの”に絡めとられて呼吸しにくくなるもんね。


写真は、ホルへのピアス。前から見ると、縦長のシンプルなピアスなんだけど、横から見ると耳たぶの表と裏でつながっているという横から見たときの美しさにもこだわったデザイン。¥14700(→完売御礼