劇薬は少量で効く。

gris-bijoux2007-08-03

「いつも思うことがある。自分が女性であるだけで、それでもう女性性は過多だ、と。けれど、自分の性を拒んでいるのでは決してない。大切なのは、女性という性が取り扱いの難しい劇薬のようなものである、と自覚することだ。劇薬は少量で効く。女女(おんなおんな)した態度よりも、強い佇まいの中にときおり垣間見る女性性のほうが、ずっと品格の高い女を感じる。幸田文の文体にひどく惹かれるのは、彼女の生き様がまさに私の願う“女”だからだろう。」


幸田文の『きもの』に関する猫沢エミの書評である。


自分の先天的な外見や、キャラクターや年齢、職業等々、トータルで考えたときの“女性性”の配分の仕方、バランス具合というのは、髪型を決めるときも、洋服を買うときも、ありとあらゆる場面で女の子は物心ついたときから、“自分にはどの程度この劇薬を垂らすべきなのか”を無意識に判断していると思う。


今回の参院選丸川珠代がかなりバッシングされていたけれど、“女子アナ”(女性キャスターではなく)というまさに女性性過多な業種から、ある種男性性過多とも言える政治の世界へ、この“女性性”という劇薬の案配をそのままに移行しようとしてしまったことが一つ原因なのかな、とも思う。他人の目にさらされる立場の女性のそのさじ加減というのは、よほど自分を客観視できないと本当に難しいのだろうなぁ。


この秋冬は「ビューティーは、ハンサムへ。」とマキアージュは掲げたし、今回のフィガロも「目覚めよ!ハンサムウーマン」が特集だったけど、ちょっと前までの流行りのパフスリーブとかの甘い感じは、存在しているだけで女というのは女性性過多であると考えれば、かなりトゥーマッチではあって(嫌いじゃないけど)、今度は「“女”を自覚し、制御する」方向がまたトレンドとしてやってきたのかも。


林真理子のエッセイの中に


「洗練とは、その名のとおり、洗われて、練れていくこと」


といった内容がたしかあったけど、過多なものを削ぎ落とし、「劇薬のような女性性を、どうコントロールし、美しく昇華させることができるのか」ということが、“女としてのセンス”なのだろうなぁ、と思う。


余談だけど、そこには“でも、若い頃にたくさん過剰なくらいいろんなものを持っていることが条件で、そうじゃなきゃ削ぎ落とすものがないじゃん”と書いてあって、林真理子っぽいなぁと思った(笑)。


写真は、MONICA VINADER。\30300