かなわない夢ならあるぜ。

gris-bijoux2009-01-12

とは、イチハラヒロコですが、


日経に、東浩紀が今小説に書いているテーマである



「35歳問題」



について小さく書かれている記事がありました。


35歳ぐらいになると



「成し得たこと、よりも、成し得た“かもしれない”ことの方が重くなってくる」



というような内容と思うのだけど、その書評(?)の部分だけ取り出してみるとそれはなんだか最近わかるなぁ、と思うのです。



もしかしたら周りの人はとっくにそんな境地なのかもしれないのですが、私なんかはまだまだ20代前半ぐらいの気分が抜けず、人生の可能性は自分の意志次第でいくらでも開けていくような気がぼんやりしていたけど、


もはや確実に“一生手に入らないもの”というのが存在する、ということに、ふと、びっくりします(いまさら?)。


例えば、学生の頃は広告クリエイターになりたかったけど、会社を辞めた時点で私の人生の中でその選択肢は永久になくなったし、何か別のものを選んだことによってある可能性を捨てていて、そしてそこには一生戻れない、というようなものが年齢とともにどんどん多くなっていくような気がして、あぁ、人生って限界があるんだなぁ、と実感を持って感じる年齢になってきたような。



ある某クリエイターが対談で「40歳を過ぎると、司馬遼太郎よりも藤沢周平」と話していて、なぜなら、



坂本龍馬みたくなれるのかなと思っている時に、司馬遼太郎の小説というのは、ものすごくいいわけだ。中学とか高校の時ね。そのころまでは、胸をわくわくさせながら読むけど、ある時、坂の上に雲なんかないじゃないかと分かってくる。俺は勝海舟でも坂本龍馬でもないじゃないか、全然。」


「(司馬遼太郎は)偉大で非凡だった。なのに染みるような笑顔だった、みたいな。そういうことで参っちゃうわけでしょう、読む方は。藤沢周平はそうじゃないんだ。この人たちは無名だったんだ、生涯、という。ヒーローじゃない無名の武士が、ある誇りのために生きて死ぬ、みたいな話だろう。すると、そうなんだよ、といきなり傾斜しちゃうわけ。」


「自分の生涯も藤沢周平に書いてもらえれば、こういうふうになったりしないかな、という幻想を持つ。読者というのは。この何でもない町で平凡な一生を終わるとしても、というところで。」



・・・まぁ、まだここまで老成していないにしても、その前段階の気分みたいなものはなんか最近わかるような気がします。


なんか暗い話をしているようですが、“いつか夢は必ず叶う”的なことをキラキラした眼で語るのも限度があって(別に語ってないけど)、もっと人生とか時間の有限性に向き合った上で一つ一つを慎重に選んでいかないと、一方でどんどん“叶わなくなっていくもの”が増えていく、という切実な感覚で、真剣に生きていかないとなぁ、と思う年初です。


EPICE \15750→\11025(→完売御礼