凛の反対後は、くねくねだと思う。
(ハリネズミ→Sold Out)
昨日は、飯田橋にて10人ぐらい?でいろんな女社長さんたちと飲む。みんな超元気で、楽しかったー。
ちなみに、その際、学生時代からの友人には、
ブログの中身が、おっさんだ
と指摘されました。
・・・ありがとう!!褒め言葉と受け取っておく!(違う?)
で、ここで話は、広末涼子である。
今回のアカデミー賞、
あれはスタイリストが果たして付いていたのか
なんならむしろ着物の方が良かったのではないか
とか
“ドレスアップするときは、ネックレスをしないでデコルテをバーンと見せる”というトレンドにおいて、あのネックレスは全体のバランスの中で引いた方が良かったのではないか
等々、私の周りでもいろいろ声が聞こえて参りますが、
そんなことより我が家で一番の問題となったのが、
世界の舞台でくねくねしないでほしい
ということである。
最初から通しで見ていたけど、どの女優も堂々と、一人間としてのメッセージを世界に伝えたり、毅然とそこに存在していて、あんな風に、壇上の横でくねくねとプレゼンテーターや滝田監督に対するわざとらしい動きで存在をへんにアピールするような女優は一人もいなかったと思う。
ソフィア・ローレンなんてメリル・ストリープに対して、腰に手をやり仁王立ちである。
讃辞なのに。
こわい。
・・・いや、“ソフィア・ローレンと広末涼子”はちょっと比較が異次元すぎたか。
でも、デコルテのみで勝負をする、というのが端的に表しているような気がして、それはドレスそのものの美しさと自らの肌の美しさのみの勝負ということでもあり、それはものすごく潔さを必要とする着こなしで、装う部分が少なくなるほど自分自身がでる訳で、そうすると自分自身も人として“張って”いないといけないだろうし、着こなす姿勢も“張って”いないといけなく、媚びた自分や、くねくねした動きでは全く美しく振舞えない装いだと思うのです。
女性アナウンサーが、メインの司会者が話しているコメント対して(視聴者そっちのけで)隣で目線をやり続けてウン、ウンと頷き続けるニュース番組をよく観るけれど、なんだかあの光景を観るのと同じ気分になりました。
報道番組やアカデミー賞という、そこに真剣に対峙している人生や人間がいる場において、媚びや中途半端な女性性を見せられることの気持ち悪さ。
女は女であることで既に過剰な女性性を保持している、ということを言った人がいるけれど、女は気をつけないと“甘え”がでやすいと私自身も日々思う。体力の無さ、なんていうのは顕著な例。
だからこそ、女こそ本当は“張って”いないといけない、と思う。
そういう意味において、世界中の視線を浴びて、尚、強烈な俳優陣の中で自分の個性を確立し、颯爽とあのステージに上がってくる女優たちの堂々とした振舞いは、なんとかっこいいことよ。
それに対して、広末涼子に感じた嫌悪感は、女性たちが意識的にしろ、無意識にしろ、大人になるとともに律して、消そうとしてきた過剰な女性性、甘さ、いやらしさみたいなものを公の場でかさぶたを剥がすように見せられたような、もっというと、自分の中にあるそういう部分を見せられたようで、なんだか嫌だなぁ、と思ったのかもしれません。
で、また話は最初に戻って、ブログの話。
なので、無意識的にできるだけ中性的というか、男でも女でもなく、お仕事なわけだし(ブログが?)、できるだけフラットなかんじで書きたいというつもりはあるのかも。
・・・ま、ただ“おっさん”は傾きすぎっちゅう話はあるね!“弱女性”(参考:弱アルカリ性)ぐらいでキープしていきたいと思います。